C言語でプログラミング開始
3人の開発者で出発
マイツールのソフトの開発者は最初はたったの3名でした。
リコーがマイツールをやろうと決めた時に荒川さんが連れてきた2名。
それに私と一緒にSIMPLEを開発していた1名、の3名です。
提案にはリコーから何人か開発者を出して貰うという条件があったのですが、リコー社内の他部門からは人を出してもらえず(外部からの提案を受けて開発するなんて、どうせ失敗するだろうと冷ややかな目で見られてましたから)人が集まらなかったのです。
テーマがスタートしたての頃は場所がなく、荒川さんを含めた4名で会議室を転々としながらコーディング(プログラムを書く事)したりしていましたので、移動する度に荷物が増えて大変でした。
長谷川さんは会議の度に館山から東京に出てきて、我々と販売戦略をたてたりしていました。
帰れなくなると新橋の第一ホテルが定宿でしたね。
そういう会議にリコーから出ていたのは、私と今東京支店にいる橋本さんの2名でした。
開発を私、販売関係を橋本さんが主にまとめていました。
橋本さんは長谷川さんと新橋のビルの屋上のビアガーデンで女子プロレス見ながら、これがリングに牛乳まいてその上でやるんですけど、販促はどうしようかなどと打ち合わせしたりしたこともあります。
まあ、それくらい我々は結構自由にやってましたね。
やがて
そのうち半蔵門の近くに1ルームマンションを借り、そこを開発拠点にしました。
リコーの本社の青山から地下鉄で2駅で行けるので、ほとんど毎日私はそこに出かけ開発の進捗のチェックをしたりしていました。
3名では足りないので開発者もだんだん増やして行きました。
でも相変わらず社内では人を出してもらえないので、社外から人を集めました。
この頃仲間になった開発者にMUG栃木の東宮さんの息子さんがいます。
彼は優秀な開発者で最初EFを彼にやってもらいました。
伝票入力のような時に使うコマンドだからと説明したら、「伝票なんて見たことない」、なんて言うので色々説明したりしましたね。
後に彼はマイツールの中身を整理してMバージョンの基本構造を作りました。
C言語に変更
マイツールは最初アセンブラ言語で書かれていましたが、今後それでは開発効率が悪いということになり、途中からC言語に変更しました。
荒川さんのところの2名の開発者がC言語に変更したいと言ってきたので、その場でそうしようと私が決めました。
私のところに来るまでは、そのぶん開発が遅れるのでダメだと言われるんじゃないかと心配だったようです。
しかし私も、アセンブラでは難しいなと感じていましたので、当面遅れがあっても後から充分取り返せるだろうと思ったわけです。それに出来上がりの納期もそれほど皆から気にされていなかった事もありますけどね。
今では考えられないですね。
C言語もまだそれほど使われていなかった頃でしたので、ある雑誌からC言語での開発状況を書いてくれないかという話があったりしたこともあります。
そんなわけで開発者が(4人だっけかな )記事を書いたのだけど、マイツールはC言語で書かれたアプリケーションの草分け的なものと言ってもいいでしょうね。
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