日立のハードと日本語変換
ハード
SPシリーズは、日立が販売している機種とまったく同じもの(名称は違いますが)だったわけですが、販売量はリコーのほうが徐々に多くなっていったという状況でした。
日立の売れているところと言えば、ほとんどが全国に散らばっている関連会社の端末としてというのでしたからね。
他のパソコンメーカーと比べて特色があるというわけではなかったし、価格も他社より割高だったですからね。
日立では品質に非常に気を使っているので、他社より高くなると言ってましたが、実際何回も工場に行ったりしたけどテスト期間なども結構長かったですね。
ハードも日立のパソコンは象が踏んでも壊れないなんて言われてましたよ。
筐体なども鉄板が入っていたりしてね。
パソコンのようなもの初めて作る工場だったので(モーターとか洗濯機つくっていた)慣れていなかったこともありますね。そんなわけで初期の製品は品質的にオーバースペックといってもいいくらいですね。
ちょっと横道にそれるけど、パソコンも台湾で作られるようになってから品質的には落ちましたね。
後にIBMを扱うようになった時、日立のマシンに比べて不良が多かったですからね。
まあ、日立も台湾使うようになってから他社並みになってしまいましたけど。
それでも日立は台湾使うようになったのはずっと後だったので、皆さん他社より品質良い製品を使っていたということです。
日立もマイツールは如何?
マイツールを日立でも扱ったらどうかという提案をしたりして、私など日立のサポート担当にわざわざ教育したりしたのだけど、結局はダメでした。
SORDの事が心配だったなんて後から責任者が言ってたけど、実際はソフトを売るという事が分かっていなかったのです。
何しろ日立には企画部門みたいのがなくて、工場の設計の親分がパソコンの責任者で全てみていたのですから。
ソフトで特徴を出さないとIBM、富士通、NECに絶対勝てませんよって何度も言ったのだけど。
この体質は今でも変わってない気がするな。
日本語入力への要望
我々はハード、ソフトに関して事ある毎にいろいろ要望を出していたんだけど、ハードに関しては工場側はけっこう腰が重かったですね。
ソフト、特に日本語入力については要望をいっぱい出しました。
何々と言う言葉が変換できないとか、私の名前だって「あきら」 で出なくて句点6611と入力していたしね。
もっとも最初から、「あきら」 と呼んでくれた小学校の先生もいなかったくらいだから仕方ないかな。
後から日立のほうも、リコーの偉い人とか関係者などは辞書に入れて、ちゃんと出るようにしてくるようになりましたね。
一度変換したのを次に最初に出せとか(学習機能なんて今では当たり前だけど、最初はなかったのですよ)、他にもいろいろ要求しました。
日立の日本語入力は、実際はリードレックスというワープロソフト開発していたところが作っていたんだけど、ハードに比べるとまだ我々の要望をすばやく聞いてくれました。
ずっと後になってから、日立から 「もう自社で開発していきたくない、ATOKにしてくれないか。」 などという提案があって、最初は断っていたんだけど、「それなら開発費をリコー負担にして欲しい。」 とかなり、結局は、マイツールキーボードにあわせてユーザー要望を取り入れながら使い易いようにしていった日本語変換を、止めざるをえなくなったのです。
次のページ「ハードもマイツール」を見る
前のページに戻る
メニューに戻る